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発掘調査などによって、15~16世紀頃の平泉寺境内の様子がわかりはじめています。かつての境内は東西約1.2㎞、南北1㎞の範囲に広がり、境内の北側と東側には、三頭山からのびる尾根が横たわり、南側には女神川沿いに崖が続いています。
境内の中心部分は、東西方向の細長い尾根上にあって、社殿や堂塔が建ち並んでいました。これを挟んだ南北両側の谷(南谷と北谷)には多数の坊院が集中していました。当時の平泉寺は、まさに中世の「宗教都市」とよべる性格を備えていたのです。
【平泉寺周辺の空中写真】
平泉寺境内は、山や川に囲まれた、まさしく自然の要害であったのです。
【中世平泉寺の推定復元図(イラスト:島村正博)】
最盛期であったと思われる15世紀中ごろから16世紀はじめにかけての平泉寺境内の景観復元を試みたものです。
坊院群の中を走る道路は石敷きで側溝を持ち、坊院敷地の出入口も等間隔に配置されるなど、かなり計画的な整備がなされていたようです。
寺の正面にあたる西側には堀や土手が設けられ、つねに外敵の侵入にも備えていました。
境内から外へ出る幹線道路に沿っては、いくつかの市が立っていたようです。そこからは、鍛冶屋があったことをしめす遺物も発見されています。
山の斜面からあらわれた中世の石畳道と石垣
写真:推定地蔵院跡推定復元図(原画:吉岡泰英)
写真:推定地蔵院跡発掘調査
写真:推定地蔵院跡遺構測量図
ひとつの坊院は、主屋とそれに付属するいくつかの建物群からなり、その敷地は土塀で囲まれていました。
坊院跡からみつかった遺物の多くは生活用品であり、坊院は宗教的な施設であると同時に、僧侶の日常的な生活空間であったことをよく物語っています。
食器類には、瀬戸・美濃焼をしのいで多くの中国製陶磁器が用いられていたようです。また、文房具や茶道具、生花具などもたくさん出土しており、これらを通して僧侶たちの生活や文化の様相をうかがい知れます。
坊院跡から見つかる遺物は、そのほとんどが日常の生活用品です。貯蔵具の甕や調理具の擂鉢は、平泉寺のある越前国で焼かれた越前焼が使われ、まな板や包丁、木製杓子を用いて料理していたようです。食器類は中国製の陶磁器が国産の瀬戸美濃焼よりも多く使われていました。また、厳しい冬を乗り越えるために、石製の行火や土器製火鉢といった暖房具も使っていました。
僧侶の用いる仏具としては、仏前に供える銅製の碗(六器)や数珠玉などが出土しています。僧侶のたしなみの道具としては、文房具(硯・墨・筆・筆架)や茶道具(茶臼・茶壺・茶入・天目茶碗・風炉)、花生のための水盤や座敷などに飾る中国製の高級陶磁器があります。このほかに、甲冑や鏃の破片も出土しており、これらは僧兵が用いたものでしょう。
写真:青白磁観音像
青白磁観音像 推定復元図
中国(元)の景徳鎮窯(江西省)で焼かれたものです。敷物を敷いた岩の上に座り、手は膝の上で印を結んだ瞑想する姿であると考えられます。珠玉や花を表現した装身具を身に付け、衣の袖は台座まで垂れ下がっています。元代の青白磁観音像は、国内ではほとんど事例がないため、当時の貿易や流通・文化を考える上で重要なものです。
現在、勝山市では、史跡の積極的な公開・活用をはかり、史跡への理解や関心を深め、文化財を活かした地域づくりを行うための整備を行っています。
【整備の内容】
(1)発掘調査地の整備(門・土塀の復元、坊院遺構表示、見学路整備など)
(2)ガイダンス施設(史跡の案内所、資料館、活用の中核施設)の建設
(3)史跡エントランスの整備、誘導サイン・遺構解説サインの整備
発掘調査や整備の最新情報は、毎月発行している『平泉寺かわら版』で紹介しています。