勝山左義長とは

勝山左義長とは

勝山左義長の起源

勝山町における左義長がいつごろから始められたものかはよくわかっていません。 江戸時代において「左義長」「顕如講」「御前相撲」は、町の三大年中行事として、勝山町だけでなく藩領の域をこえて、近郷の人々が見物に押しかけました。「御前相撲」は八幡社、のちには町の氏神を祀る神明社で行われ、歴代の藩主が観覧するのが恒例でした。 この事実が示すように、「御前相撲」は幕末まで勝山を支配した小笠原藩との関係が深い行事でした。

それに対し「左義長」は、下町の行事として始められたものであったと思われます。 現在は「勝山左義長」と呼ぶように、あくまでも町の年中行事として、町民が主体となり町民の自治のもとに行われ、結果として町民の結束を強める役割を果たしてきました。左義長の初見史料は寛延元年(1748年)の次のような内容のものです。

勝山左義長とは

史料中の「去々寅」は延享3年(1746年)です。これはあくまで史料の上での初見であり、史料からは左義長がそれ以前から行われてきたことがうかがえます。その始まりは、勝山三町(袋田町・郡町・後町)が成立した17世紀はじめか、勝山町が町として発展をはじめる時期か、小笠原貞信が藩主として元禄4年(1691年)に勝山に入封し、城下町として成立する時期か、現在のところ左義長の始まりを示す確実な史料を欠いています。

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