左義長太鼓
太鼓の史料は、文化元年(1804年)に見られます。そこには「左儀帳之櫓を建太鼓も日の打たせ」とあります。櫓の上で叩いたかどうかはわかりません。大正時代に入ると、三町芸もしだいに廃れ、櫓の上では笛・太鼓・鉦などの鳴り物に囃され、左義長太鼓も叩かれます。太鼓の音が響かない様に太鼓半分に子どもや、若者に腰を掛けさせ、三人一体で浮く、勝山左義長独特の太鼓で、他に類はありません。
また、太鼓の枹が短いことも特徴で浮かれながら太鼓を打ち、枹にはカラーテープなどを巻く事は禁じられています。
左義長囃子
「だいづる」と呼ばれる「蝶よ花よ 花よのネンネ まだ乳飲むか 乳首はなせ乳首はなせ」と囃される左義長囃子の元唄も元来は座敷歌として古くから唄われており、男と女の戯れ唄であったと思われます(この唄はいつ頃から唄われたか定かではありません)。
「だいづる」の他に
・御大典(ごたいてん)
・金毘羅舟々(こんぴらふねふね)
・四調目(しちょめ)
・戦友(せんゆう)
などのテンポの軽い囃子唄が囃されています。囃し方が座る場所も、先輩後輩の序列が守られて、櫓でも礼儀作法が浸透されているのも小笠原礼法が重んじられる町として、きびしく指導されていたからです。
※子供囃子は昭和四五年から。